【本出ますみさんプロフィール】
ウールクラッサー(Wool Classer・ウール格付け人)
羊の原毛屋SPIN HOUSE PONTA、スピナッツ出版代表。
1958年生まれ、1984年に京都で原毛屋を始める。
1991年にニュージーランドのリンカーン大学にて、ウールクラッサーの資格を取得。
2012年より正倉院花氈の素材を研究。
スピナー、羊飼い、メーカーをつないで「羊と羊毛のある暮らし」を模索する羊マニア。
【著書】
「羊の本 ALL ABOUT SHEEP AND WOOL」(2018)スピナッツ出版
「世界のひつじめぐり」(2016)グラフィック社
「正倉院起要」37号(2015)、42号(2020)
正倉院の花氈に関する報告―素材―、宮内庁正倉院事務所 他多数
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・JAPAN WOOL PROJECT hhttps://spinhouse-ponta.jp/jwp/
・Instagram ID @spinhouse_ponta
SPIN HOUSE PONTA・スピナッツ出版社の事務所で、現在のお住まいでもあるこちらの建物にはとても趣がありますね。
― 本出さん
この家はもともと母・澄子の実家で、私が引き継ぎました。いわゆる京町家と呼ばれる建物です。
去年水回りを中心に改修しましたが、あちこちに古き良き時代の建物の面影が残っていますよね。
母方の祖母の実家は京都の西陣で組紐の織元をしていました。
けれど、残念ながら母が子どもの頃に戦争で廃業したそうです。
私はこの家で生まれ、大阪で育ちました。
父・眞三は開業医でしたが、「医師は世を忍ぶ仮の姿だ」と言って小説を書いていました。
よく自分で書いた文章を読んで自分で「傑作だ」と言って笑っていたような愉快な人で、家族から見ても、とてもお茶目な人。
父の実家は大阪の米問屋でしたので、両親とも商家出身ということになりますね。
母方の親族には、画家、虫博士、植物の研究者、正倉院の館長など、芸術系の面白い人がたくさんいました。
その中でも私が一番影響を受けたのが、この家の近所に住み、悉皆屋の仕事をしていた叔母・伊藤美枝子です。
本出さんが特に影響を受けたという叔母・伊藤美枝子さんのお仕事・悉皆屋とはどのようなお仕事なのですか。
― 本出さん
和服づくり全体を統括する、いわばオートクチュールのデザイナー&ディレクターのような役割ですね。
お客様の箪笥の中身を把握し、その家の三世代にわたる着物制作を計画し、アドバイスします。この季節のこの着物にはこの帯、と言うようにその人に似合うコーディネートを考えながら、無駄なものが出ないように順番に必要なものを作っていきます。
どの生地を選び、誰に染めを頼み、どこで仕立てるか。
西陣には、白生地屋、染め屋、撚糸工場、織り工房などが集まっています。
叔母はそれらの職人や工房と協力して上手に仕事をしていました。
叔母の家には、業者さんやお客様がひっきりなしに出入りしていました。叔母がその人たちにどんなことを言ってどうやって商売をするのかを間近で聞いて楽しんでいました。
当時は、お金持ちの人だけが悉皆屋に依頼するわけではなかったと思います。
着物は手仕事で作られるので大量生産はできないし、時間もお金もかかりますよね。
家族全員が着る着物を無駄なく作り、管理できるので悉皆屋さんに頼む方が利口だという考えだったのではないでしょうか。
同じ型染めの着物でも、色を変えれば おばあさん世代にも子どもにも似合います。
叔母のその作り分けの見事さに、子ども心に強く惹かれました。
実は、叔母は薬害による持病を持っていました。
それでもいつも機嫌よく、楽しんで仕事をしていました。好きなことを、活き活きと続ける姿。その姿は、私の原点のひとつになっているかなと思います。
身近な方々から様々な刺激を受け、本出さんは成長していったのですね。
その後、どのようにして羊毛と出合ったのでしょうか。
― 本出さん
大学では国文学を専攻しました。大学時代は水泳、テニス、キャンプなどを楽しみ、さらにはヨットの世界大会にも出場し、世界中から参加していた人と繋がりができました。
卒業後、京都の 龍村美術織物株式会社に勤務しました。
社長の蔵書整理の仕事で出合った一冊、「インドの伝統染織」という本がきっかけで、「インドに行きたい」と思うようになりました。
会社を辞めインドへ向かう途中、友人の建築家・リチャードさん(Richard Leplastrierさん)がいるオーストラリアに立ち寄りました。
そこで出会ったのがリチャードさんのクライアントで、ご主人と共に牧場を経営していた信子・クレイギーさんです。
信子さんは40頭ほどの羊を飼っていました。
その羊から毛刈りした羊毛を糸車の横にボンと置き、糸を紡ぐのです。私はその時、原毛が糸になるところを初めて目の当たりにしました。
「毛糸は、羊の毛からできている」という当たり前のことに、とても衝撃を受けました。
その時「羊毛は人類の暮らしの歴史の原点なのではないか。紡ぐことは、世界中の人と通じる共通言語なのではないか」と思いました。
その場ですぐに、「帰国したら原毛屋になる」と決めました。
その後インドを3か月旅し、紡ぎと染織文化に触れた後帰国しました。
インドでは綿の紡ぎに触れましたが、オーストラリアで知った「紡ぐ」ということの答え合わせをしたような感じでした。

偶然なのか、必然なのか。
紡ぎを知り、様々な出会いと体験をして旅が終わったのですね。
帰国後はどのような活動を開始したのですか?
― 本出さん
今思うとおかしいのですけど、日本には糸紡ぎをしている人など誰もいないだろうと思っていたのです。
けれど、知らなかったのは私だけ。
既に手織りや手紡ぎに取り組んでいる人は国内にもたくさんいるということを知りました。
帰国後、東山の関西テーラーで糸紡ぎと染織を学んだ後、森由美子先生に師事しました。やがて助手として迎えていただき、森先生や松谷恭子さんのアシスタントとして現場に立つようになりました。
羊の原毛屋を始めたのは、帰国してすぐのことです。
オーストラリアの信子さんの牧場の原毛を送ってもらって販売を始めました。しかし、羊の原毛は説明がなければその価値が伝わりません。
洗い方、繊維の特徴、用途の向き不向き──知識がなければ選べない素材です。
「きちんと売るために、まず伝えなければならない」
そう考えて1985年5月創刊したのが、雑誌『SPINNUTS』でした。
「Spin(紡ぐ)」と「Nuts(夢中になる)」を合わせて造った言葉です。
創刊号は、手書き原稿をコピーした30部。文章もイラストもすべて私の手書きでした。
海外も含め興味が赴くままにあちこちを訪ね、人に会い、イベントを巡り、写真を撮り、原稿を書く。
6号では発行数が200部に増え、7号からは印刷所に依頼するようになりました。
今振り返っても、当時から興味の対象は変わっていないなと思います。
「誰が、どんな道具を使い、どうやって糸をつくっているのか」
を伝え続けてきました。
雑誌を発行することの大変さは容易に想像できますが、さらに、SPINNUTSは実物のサンプルが付いているということが大きな特徴ですね。
はじめて手に取った時に驚いたことを覚えています。
― 本出さん
そうですね、SPINNUTSの大きな特徴は、羊毛や布の実物サンプルを綴じ込んでいたことでした。
それによって発送制限もあり、手間もコストもかかりましたが「サンプルが付いているからSPINNUTS」と言っていただける存在になれたことは誇りです。
誌面には、登場してくださった方々、連載執筆者、広告出稿者まで、その時代の紡ぎや織りを支えた人々の姿が記録されています。
昭和から現代まで、それぞれの時代に誰がどんな道具を使い、どんな作業をしていたのか。その蓄積は、今となっては貴重な資料です。
2026年3月、SPINUTSのバックナンバーは電子図書化されました。
これは過去の記録であると同時に、未来のスピナーへの資料でもある。
だからこそ、電子書籍としてSPINNUTSを残したいと考えています。
実は、SPINNUTSを電子化するためにあらためて読み直していると、自分で書いているのに思わず笑ってしまうことがあるんです。そんなところは父に似ているのかもしれませんね。
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本出ますみさんへのインタビューは後編へと続きます