Interview07/ 染織家 ・「アトリエ・アンカーペグ」主宰 菱田成子さん 前編



【菱田成子さんプロフィール】

1960年世田谷区生まれ

1982年玉川大学文学部卒業

1982年より母校の玉川学園高等部にて非常勤講師として勤務

1999年よりスウェーデンにて開催されるväv messenに2008年まで参加

2010年より鎌倉の「一翠堂」にて個展を開催(2015年まで)

2014年スウェーデン大使館エントランスホールにて織物展を開催

2018年スウェーデン大使館にて留学イベントに参加。北欧の手工芸について発表する。

2024年現在はアトリエ・アンカーペグを主宰しつつ、個人の制作も同時に行なっている。

 

【北欧の織物教室 アトリエ・アンカーペグHP】

  https://anchor-peg.com



それではまず、菱田さんが染織をはじめることになる

きっかけについて教えてください。

−菱田さん

 玉川学園高等部に在学していた時、芸術の選択授業で「染織」を選んだことがきっかけです。染織を学びはじめた高校2年生まで、将来は同時通訳の仕事に就きたいと思っていたので、進学に必要な英語の授業ばかりを取っていました。

 

私の第1希望は陶芸でしたが人数の関係から第2希望の機織りのクラスを履修することになりました。

 

染織と出会ったのには偶然の要素もあったのですね。


−菱田さん

 その偶然のおかげで、すっかり機織りの魅力にはまってしまって、進路も変えてしまいました。附属高校でしたのでそのまま大学に進学できますが高校では進路に沿って必要な授業を履修する必要があったので、芸術学部に進学するために不足している教科がたくさんあり、ほとんど全ての必要科目を取り直すことになってしまいました。

 

その時まで実技としてのデッサンもやっていませんでしたので、学校の先生にも無理だろうと言われましたが無理矢理押し通し、やりとげて進学できるようにしました。

大変でしたが、若さの勢いがありましたね。

染織と出会ってしまったことでそれまで思い描いていた翻訳家」という進路とは

異なる道へ進むことになったのですね。

−菱田さん

 母は芸術学部への進学は反対しましたが私の熱意を知ると、英検を取ること、教員免許を取ることを条件に最終的には許してくれました。

 

私の母・伸子は戦時中田舎に疎開していた経験があり、「機織り」なんてお母さんが家庭の仕事のかたわらで内職のような形でするもので、大学でお金を払って勉強するなんてとんでもないと思ったようです。

母は疎開先で手仕事を担ったりもしていました。92歳になった現在でも私の織り教室で生徒さんたちが織った布をバッグや服に仕立てることをしています。

 

よく、母が手仕事をしていたから私も手仕事が好きなのねと言われますが、自分ではそんなことはないかなと思います。逆に、母がやっていたことなのだから難しいことではなく自分でも必ずできる、と思っていました。

 

織りの手仕事を見たことがない人には難しく見えるかもしれませんが、母の原風景に「織り」があるように、昔の日本の人には「織り」はとても身近なところにありました。

当たり前のように暮らしの中に織り機があって、お蚕さんを飼い、座繰りして糸を作って自分で織るということをしていたのですね。

周囲の方の心配も情熱で押し通して芸術学科へ進学。

大学ではどのようなことを学んだのですか?


―菱田さん

 大いに意気込んで入学したものの、大学で学ぶことがなんだかしっくりきませんでした。進学した学科では着物の反物制作やファイバーアートなどが中心で、少し自分のやりたいようなこととは違うな、と思いながら学んでいました。

 

大学2年生になった頃、教授にマリン・セランデルの本を見せてもらいました。彼女の本に載っている織物はまさに私がなんとなく思い描いていた「生活に近い織物」そのものでした。とても衝撃を受けたことを覚えています。その頃から急に私はスウェーデン、スウェーデンと言い出しましたね。

 

その当時、スウェーデンの織りというものは

日本でメジャーだったのでしょうか。

―菱田さん

 1973年頃に山梨幹子さんがスウェーデンのフレミッシュ織りというものを日本に紹介し、国内で広めて、その10年ほど後に大型の織り機で織る本を出されました。

そこでスウェーデンの織りというものが日本で認知されるようになったと思います。

 

私は大学を卒業してから3年ほど柿の木坂にあった山梨さんの教室に通いました。

その頃、日本ではスウェーデンの情報がほとんど手に入りませんでしたので、教室で見たものは全て新鮮に目に映りました。

 

講師として働きながら、3年ほどかけて山梨さんの教室でスウェーデンの織りの卒業資格であるディプロマを取得しました。

大学での学びとスウェーデン織の教室での学びに

どのような違いや特色があったと考えますか。

 

―菱田さん

 20歳の時にマリン・セランデルさんご本人が来日された際の講演を聞く機会に恵まれました。当時のスウェーデンの糸は国営の糸屋さんが作っていて、安価で質の良い糸がたくさんあったのでわざわざ染める必要がなかったとのことです。

 

その講演で、たとえば、「黄緑」の糸が欲しかったら、糸を黄緑に染めるのではなく、「黄色と緑」や「黄色と青」を配置することによって「黄緑」を表すという並置混色がスウェーデンの織の表現であるというお話を伺いました。

「色は色として存在していて、並置することで色を表現するので混色にタブーが無い」という考え方に衝撃を受けました。

 

私の通っていた大学では糸を染めてから織るということを学んでいましたので、既成の糸を使うスウェーデン織りは少し手を抜いているように感じていたところもありました。ですが、マリン・セランデルさんのお話を聞き、その理由が腑に落ちました。

スウェーデンの織物は深みがある理由も納得し、より一層スウェーデン織りに惹かれていきました。

 

そして、生活の中で使える本当に良いものを大切にすることが生活を大切にすることだというスウェーデンの手工芸を尊重する考え方にも共感しました。

大学を卒業されてからはどのように織りと関わられたのでしょうか。

 

―菱田さん

 大学を卒業し、母校の玉川学園高等部で美術の非常勤講師として今度は私が生徒に染織を教えることになりました。

染織コースには既存のカリキュラムがなかったので、自分で考えて作ったカリキュラムで生徒たちに教えました。

国産のろくろ式の織り機で綿、麻、ウールを染めてから平織りや綾織りでランチョンマットや膝掛けなどを織り、高校3年生の学園祭で作品を展示することを目指すという内容でした。

 

実は前の先生が急にお辞めになったので、大学4年生の1月から高校で教え始めました。私と4つくらいしか年齢が変わらない子達への授業でした。

女子は私服の学校だったので、私は高校生に間違えられないように服装には気をつかいました。

 

ちなみに、その頃教えていた生徒で今わたしの教室に通っている方が数名います。

今、アトリエにはスタッフが数名いるのですが、その中の半数は指導していた染織コースの卒業生の方なのです。長いお付き合いですよね。

 

高校で染織が学べるとはとても珍しく感じます。

授業はどのような雰囲気でしたか。

―菱田さん

 玉川学園は自由な学校で、規定の必修科目以外の自由選択の授業は自分で好きなものを選べたので1週間で最大8時間、染織の授業を入れることも可能でした。

しょっちゅう織り教室にいる生徒さんもいましたね。試験が無かったので私の授業は人気だったように思います。

 

若い人たちがキャーキャー言いながらもなんとか作品を仕上げているのを見ていると、人間って基本的にものを作るのが好きなのだなと思いました。

 

基本的には女子の美術コースの授業でしたが、自由選択の授業では男の子も履修できたので、平成になった頃からクラスの男子の比率が上がってきました。

とにかく、楽しくワイワイと騒がしいパワフルな高校生を相手に授業をしていました。

楽しそうな授業の様子が目に浮かびますね。

菱田さんのインタビューは後編へと続きます。



[取材・撮影]: 遠藤ちえ / 遠藤写真事務所 Instagram @chie3endo